時代精神の病理学

 

不安神経症と強迫神経症について p101

 

今、生まれつき神経が不安定で、汗をかきやすい人がいると仮定しましょう。

ある日彼は自分の主人、あるいは誰か別の社会的に彼よりも身分の高い人物に出会います。

何が起こるでしょうか?

彼はただもう不安と興奮のあまり汗をかき始めます。

またその際、相手に差出さねばならない手も目立って汗をかいているのに気付きます。

もしこのことが彼の注意を引きつけると、

「この次またこんな機会があり次第、自分にはまた同じようなことが起こってどぎまぎするのではないか」と

きっと心配してしまいます。

しかも実際はどうでしょうか?

汗が出るという不安だけで、もう汗が、すなわち冷や汗がにじみ出てきます。

そうしてその結果ますます汗をかくでしょう。

要するにある症状、具体的な例では発汗が汗に対する恐れを生むと、

ついでこの恐れ、期待不安、すなわち症状に対する不安な期待がまさにこの症状をいよいよ固める。

そして最後にこうして固まった症状が患者の恐れをさらにまた強めるという具合です。

これで悪循環は出来上がります。

あるいは患者が自分をこの悪循環の中に閉じ込める、

蚕のようにその中に自分を紡ぎこむとでも言った方がいいでしょう。

われわれはみな、願望は思考の父親だという古いことわざを知っていますが、

これからはこう言うことができます。

願望が思考の父親なら、

恐れは事象の、しかも疾患事象の母親だと。

 

さて不安神経症に話を戻すと、そこでは期待不安が何か特別なものに関係すること、

しかも、当人がそれほどまでに恐れるもの、

他ならぬ期待不安の意味で彼がそれほど恐れつつ期待するもの、

それは不安そのものであることが明らかです。

要するに、不安神経症の人はある一般的な期待不安ではなく、

とりわけ不安期待を悩むものです。

つまり不安に対する不安です。

そしてこの点で彼はFD・ルーズヴェルトと一致します。

ルーズヴェルトはかつてその有名な炉辺談話のなかで

「われわれが一番恐れるのは———恐れそれ自体だ」と言ったからです。

 

しかし我々は左ライン突っ込んで、患者自身に、

彼が自分の不安に対して不安を抱くようになった詳しい理由だけでも訊ねてみましょう。

すると、不安な興奮に引き続いて起こるかもしれない状態を

あれやこれやと心配するうちにそうなったことが判ります。

つまり広場で卒倒するのではないかとか、

広い街中で心臓麻痺か脳卒中のためにやられるのではないかと恐れるのです。

そしてここが心理療法の力の振るいどころで、

こうした心配がどんなに根も葉もないものかを彼に納得させなければなりません。

いやそればかりではなく、心理療法の枠の中で、

自分の不安から決して逃げ出さないよう(矛盾のようだがそこに居座らせて)患者を励ます必要があります。

それどころか、そんなに恐れている何もかもをたとえほんの数秒間でも文字通り欲しがらせねばなりません。

こうして恐れに望みが入れ代わると、すべての不安はすぐさま邪魔されます。

おろかん不安はそのとき賢者になり、賢者らしく引き下がります。

 

強迫神経症の人には小さいことにくよくよしたりする傾向があります。

あるいは、ガス栓をひねったかどうか絶えず確かめたり、

またいつも手を洗ったりしないと気が済まないものです。

ある日ふとした理由から彼は自分について離れない馬鹿らしい考え、

つまり強迫表象を恐れるようになります。

これは精神病それも本式の精神病の徴候かも知れないという考えが浮かぶだけで彼には十分です。

そしてこうなると

あれやこれや気になって、これらの考えに突き当たり突進し争うようになります。

ちょうど不安神経症の人がもともとそして結局は不安に対する不安で悩むように、

強迫神経症の人は明らかに強迫に対するすなわち強迫的な考えに対する不安で悩みます。

そして、強迫に対するこうした不安から強迫に対して戦いを挑むのです。

というのは先にも述べたように、強迫に向かって突進するからです。

しかしこれも同じく間違いです。なぜなら不安が不安に対する不安にまで強まるように

強迫神経症の人にかぶさる強迫思考の重みも、

それに対して突進していくことで加わる逆の重みのためにかえって強まってしまうからです。

 

こういう場合にも

 

 

 

 

 

 

自分自身に対する不安  p132

 

ところで疾患恐怖には特別の事情があります。

この恐怖は恐れているものをまさに招き寄せ、誘い出すのです。

たいていの溺死の例では、

溺死に対して恐怖を抱いていたことがそもそもの因を成していると以前言われたものです。

願望が思考の父親なら、恐怖は事象の母親だと言えますが、

このことは疾患事象にも当てはまります。

恐れるもの、不安のうちに期待するもの、それは間違いなくやってきますし、

それは恐れるためにますます確実に現れます。

赤面するのではないかと心配すると、かえって赤くなります。

汗が出るのではないかという不安があると、

まさにその不安のためにかえって冷や汗が滲み出ます。

われわれ神経医はこの期待不安の機構を知っていますが、

これはまさに悪循環ともいうべきものです。

つまり一時的に起こるだけの、

それ自体は何でもないような障害が不安を生みつけ、

不安は障害を固めます。

そして今や固められた障害がこんどは患者の不安を強めます。

これで悪循環は出来上がりですが、患者は少なくとも医者が手を出すまでこの中でもがいているのです。

 

ところで、この悪循環で一番悪いのは、不安な期待がいつも激しい自己観察を結果することです。

ここで吃りの人について考えてみましょう。

吃りの人は自分の口つきをびくびくしながら見守りますが、

この自己観察だけでもう口つきは乱れ抑えられてしまいます。

あるいは、むりやり眠り込もうとする人を考えてみましょう。

緊張したり、自分の注意を眠ることに向けたりすれば、

それだけでもう寝付けなくなってしまいます。

それどころか、こんなことだって起こります。

ある人はようやく眠れたと思ったら、びっくりして飛び起きます。

「たしかに私は寝る前に何かをしておきたかったんだが———」と考えたものです。

「そうだ、眠りたかったんだ。」

 

さて、とりわけ神経症の人がひどく恐れるものに不安それ自体があります。

神経医はこれを不安に対する不安と言います。

みたところ神経症者は、

「われわれにとって恐れそれ自体ほど恐るべきものはない」とかつて言った

FD・ルーズヴェルトと一致しているようです。

 

不安神経症の人が不安を恐れるように、

強迫神経症の人は強迫を恐れます。

というのも、彼にはそれが精神障害の前兆もしくはひょっとすると徴候のように思われるからです。

 

しかし強迫神経症の人たちにとってこのことは甚だ悲劇的です。

なぜなら、本物の精神障害からまさに安全な人間がいるとすれば、

それこそ強迫観念を悩んでいるかあるいはその傾向のある人たちだからです。

ところが、精神病になるんじゃないかという病的なまでに激しい不安も一種の強迫観念なのです!

こういう強迫神経症者たちは従って運が悪いわけですが、

彼らに言わなければならないのは、

彼らがまさに彼らの神経症によって精神病から守られている、

精神病に対して免疫がある、

彼らがいくらそれを恐れたところで決して精神病になることはできないということです。

 

しかし強迫神経症の人が恐れるものはまだあります。

つまり、劇場とか教会のなかでいつか叫びだしはしないかと恐れます。

しかしまたこれらの錯覚も彼らから奪い取ってしまわなければいけません。

錯覚といったのも、自殺した人間は沢山いても、

これを強迫観念から行った———つまり強迫観念を実行に写した人はむろん唯の一人もいないからです。