フランクルを学ぶ人のために  山田邦男[編]

 

第2章 鷹と鶏———ロゴセラピーの実践   勝田芽生

 

I ロゴセラピーの基盤  p31

 

ロゴセラピーは、人間のあり方を三次元の座標軸として考えるとよく理解できる。

一次元は身体、二次元は心、そして三次元は精神である。

フランクルはこの精神医学的人間論を次元的存在論と名づけた。

 

一次元の体と二次元の心とが非常に密接な相互関係を持っていることは、

私たちのよく知っていることである。

身体の調子の悪い時には気持ちも沈み、

逆に心理状態が不安定な時には、

身体の抵抗力が弱まり病気にかかりやすくなることも、

すでに医学的に証明されている。

ところで、人間には誰にでも自分が死んでしまわないように、

心身を保護・維持しようとする強い本能的な欲求が備わっている。

すべての生きものにとって自己保存のための食欲・睡眠欲・性欲などの本能欲求を満足させることが、

生存の不可欠な条件であるわけだから、

このような欲求が満たされると、

非常に強い快感を覚えることができるようになっている。

しかしながら、このように1・2次元の心身の快楽を満足させるために生きているだけでは、

人言は自然の本能に従って動いているわけであるから、

この行動様式は根本的には自然界の動物の行動様式とあまり変りがないのである。

 

人間には心身だけではなく、

動物にはない精神的な人格の次元が備わっていることは、

さまざまな現象から観察することができる。

フランクルはこの現象を説明するために、

人間の座標軸には1・2次元とは異なる新しい方向の、

三番目の軸が存在しているはずだと考えた。

この軸は何か意味のあることに向かって伸びる、

価値意識の質的な変換の曲線を描いている。

そのことによって人間の生き方は立体的になり、

それまでとは全く異なった生き方の態度が現れてくるのである。

人間はこの第三の軸によってはじめて心身の平面を超越することができるということなのである。

 

身近な例をあげてみよう、

自分が空腹でも、

自分よりももっとお腹の空いている人に食べ物をあげることができる。

睡魔と闘って、

一晩中病人の介護のために目を覚ましていることができる。

ある人間に対して性欲をそそられても、

その人に対する尊厳の気持ちから欲求の充足を諦める、

という人間の行為である。

これはフランクルによると、

本能の欲求との闘いに勝利を収めて、

「意味ある行為」の方を優先させることのできる、

精神次元の能力の現象と考えられるのである。

 

このように、人間が人間らしく生きるということは、

その状況が自分に求めている「意味」が何であるかを認識することである。

この「意味」を認識することのできるアンテナは三次元の中だけに存在するのである。

 

フランクルは、

人間が1・2次元だけを使っていると(つまり自分にとって快いと感じられること、

都合の良いこと、利益になることだけを求めていると)、

三次元のアンテナが働かなくなり、

「意味への意志」が鈍くなり、

それにつれて生きていること自体に実存的空虚感を感じ始めるということに注目するようになった。

これは症状としては神経症的なうつ病に似ているので、

精神陰性うつ病、または精神因性神経症と呼ばれている。

 

現代では、この空虚感を埋めるために、

快楽を極端な形で求めるひとが増えている。

アルコールや麻薬、危険なレジャーや異常なセックス娯楽など、

人工的な手段を使ってまでこの深い空虚感を埋めようとするのである。

ところがこの空虚感は、

人間が二つの次元だけで行動している限り、

どんなに努力しても埋めることができない。

しかも本能欲求を満足させることによる快楽感は量的に多大だが、

一定の時間が経過すると消失してしまう。

 

フランクルは、病気の患者ではなく、健康な人を観察しているうちに、

「意味」のアンテナを使った生き方をする人の質的な充実感が、

そうでない人の場合に比べてかなり長く継続するということを発見することができた。

このような人の大多数が自分自身に満足しており、

自分の生活環境にも満足感を持っており、

生きることに幸せな気持ちを感じている、ということも分かったのである。

 

「意味」というものを行動の基準として生きている人は、

二次元的な自己中心の関心だけでなく、

三次元的な普遍的な考え方(立体)もできる人のことである。

というのは、この三次元の精神というのは、

自分以外の対象に向かう志向性を持っているからなのだ。

それは自分に対してばかりでなく、

自分以外の人や事柄に対して関心と責任とを持つということである。

そしてこの「自分以外の人もしくは自分以外の事柄のために役立ちたい」という

「意味への意志」が行動の動機になる時に、

私たちは真実の人間的な幸福感を味わうことができるのである。

 

 

2 危機克服のためのセラピー  p41

 

人間は何かを希望する時に、これを同時に恐れていることはできない。

ユーモアを持ってそれが起こることを大げさに望めば望むほど、

不安は小さくなる。

 

3 危機状況の特性

 

フランクルは、人がどのような「不幸な運命の状況」を体験しているか(What)ということが問題なのではなく、

その「不幸な運命の状況」に対してどのような態度を持って生きるか(How)が問題なのだ、と考えた。

例えば、フジの病気にかかった人のほとんどは、

病気になったことを怒り、

「まだ死にたくない」としを拒絶し、

周囲の健康な人々を羨み、

ただ呆然と日々を過ごしている。

非常に気持ちが落ち込んで、

これが体の抵抗力をさらに衰退する原因にもなっている。

しかし、この病気と全く違った形で対決する人々もいるのである。

この人たちは、自分の悲しい気持ちに押しつぶされないように努め、

もう残り少ない人生の日々をどのようにして意味ある形で過ごせるだろうか、と考慮するのである。

また、あとに残される家族や友人のことを思いやって、

その人たちが不安な思いにならぬよう気配りさえする。

 

価値観の喪失

 

心理学的に考えると、「危機」というのは、

ひとつにはそれまでの生活の基礎にたっていたある一定の価値秩序が崩壊することを意味している。

今までなんらかの意味や価値を持つと信じられてきた人物や事柄を急に喪失してしまう、

または喪失してしまった、という状況変化である。

具体的には例えば、敬愛する人と死に別れた時、

大切な仕事や役目を失った時、

家族が離婚などで離散する時、

病気で健康を損ない、それによって生活設計の転換を余儀なくされる時、

事故などで人を殺してしまった時、

家族や友人に裏切られたり、集団から仲間はずれにされるとき、

重い病気に倒れたり、年をとって自分の人生になんの価値も感じられなくなる時、

天災や戦争で悲惨な日常生活を強いられるとき等々、

のような危機の状況で、多くの人々は深い悲しみと絶望に陥る。

 

ロゴセラビーの目的の一つは、

クライアントと共に新しい価値基準を探し出すことだ。

新しい価値が見えてくると、クライアントは「危機状況」から抜け出すことができるのである。

それがロゴセラピストの役目である。

 

 

鶏小屋との対決———過去の否定的な体験とはどのような態度で対決できるだろうか? P55

 

フランクルは「過去との対決」に関して、二つの方法を考えた。

 

人間は憎悪や嫉妬・復讐心などの極端な悪感情から逃れられないでいると、

それが長い間に、生きる態度全体に否定的な影響を及ぼすことになる。

そして最後にはどんな感動を体験しても、素晴らしい人と出会っても、

否定的な感情の中だけでしかそれを処理することができなくなる。

否定的な態度で生きている人は、

自分自身を不幸にするばかりでなく、

自分の周囲の環境も不幸にしてしまうのである。

マイナス思考の人間は、心身の抵抗力が弱まり、

心身症的な病気になりやすいということも知られている。

 

であるから、まず第一の段階では、どんなことを考えている時でも、

つねに影のようにその後ろにくっついている、

否定的な感情を意識して切り離すことができなくてはならない。

それには、悪感情が出てきたところで、

これをすぐに断ち切って何も考えないように自制するか、

あるいはその状況で「もっと意味のあること」を探して行動に移り、

無意味なことを考えないようにするかのどちらか、である。

このようにして、否定的感情からの解放に成功すれば、

過去に体験した不幸な運命から感情的な問題をあけることができるのである。

これがフランクルのいう「自己超越」である。

 

私たちが自分を傷つける相手に対して、

同じような方法で傷つけ返すとすれば、

それは自分を相手と同じ次元に置くことになるだろう。

そして憎しみの気持ちを相手にぶつけることで、

心の中の憎しみはさらに何倍にもふくれあがるのだ。

その反対に憎しみを抑えて、

できるだけ客観的に問題と対決しようとすると、

心の憎しみの火もいつの日か燃え尽きて、消えていくのである。

 

これは、喧嘩や議論をしてはいけないということではに。

相手の言いなりになって我慢しているようにということでもない。

自分の確信することを相手にはっきり伝えることは、

自分の成長のためにも、またお互いの理解のためにも非常に大切である。

しかし、自分のアグレッシブな感情を超越することができなければ、

相手との対決はお互いの理解のためには役立つどころか、

相手を傷つけることで終わってしまうであろう。

フランクルは、

「自分を守らなくてはいけない」から

「相手を倒さなくkてはならない」へと走りやすい人間の自然な感情増長を克服せずには平和はありえないと、

自ら先に立って自分の生き方を示したのであった。

私たちが自分の自己中心的な感情から距離をあけて、

本当に起こった事実だけを客観的に見ることができるようになれば、

そこで初めて自分を傷つけた相手に対して、

「私はあなたのやったことはよくないと思う」「私の考え方はあなたとは違う」

と面と向かって冷静にいうことができるのである。

 

ロゴセラピーというのは、

クライアントが自分の置かれている「危機の状況」を客観的に見る能力を訓練する

コーチの役割を持っているといえよう。

 

 

4 職場のメンタルヘルス活動とフランクル  千葉征慶  p109

 

「人生から何を期待できるか」という観点から

「人生から何を期待されているか」という観点へと、

視点が変えられたことを意味するかもしれない。

言い換えれば、

自己中心から他者中心の観点に変わるということである。

 

そして、多くの相談事例や自分自身の体験から、

筆者はこうも思っている。

苦悩こそ、「生きがい」そして「出会い」に通じる門であると。

 

 

第5章 フランクルと看護  牧野智恵  p111

 

はじめに

 

危機から守られることを祈るのではなく、

恐れることなく危険に立ち向かうような人間になれますように。

痛みが鎮まることを祈るのではなく、

痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように。

人生という戦場における盟友を求めるのではなく、

ひたすら自分の力を求めるような人間になれますように。

恐怖におののきながら救われることばかりを渇望するのではなく、

ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように。

(ルビンドラナート・タゴール『果実採り』より)

 

2 難病という苦悩の中で「それでも人生にイエス」と言う

 

「態度価値の実現」  p127

 

フランクルは人間存在について「人間存在はその最も深いところでは、また究極的には、

受難であるということであり、またそれが人間の本質であること、

つまり苦悩する者、ホモ・パティエンスである」と述べている。

つまり人間とは本来的に苦悩する存在であり、

その苦悩に対してその人がどのような態度をとるかによって、

その苦悩に満ちた人生を意味あるものに変えることができ、

そこに人間の成長があるということである。

 

p128

彼は自殺という行為を否定し、

生命の尊さを述べる一方で、

ヘッベルの「人生それ自体がなにかであるのではなく、人生はなにかをする機会である!」を引用し、

「どれだけ長生きするかということは、本質的にはどうでもいいことだ」と述べている。

つまり、人生とはたとえ短い生涯であっても、

その中で何を成すかが重要であるということである。

医療者自身が「生命の意味」について、

「より長く生きる」ということだけでなく、

むしろ「よりよく生きる」ということへ観点を転回する必要があるということではないだろうか。

 

延命や治療に向けた医学研究が進歩し「より長く生きる」ことへの関心が高まる中、

医学の限界や死を受け入れることは、

医療者はもとより家族にとっとは辛く、勇気のいることであろう。

しかし、絶望している患者をその苦悩から本来的に救うためには、

患者自身やその患者に関わる者(特に家族や医療者自身)が患者の態度価値の実現に向けて

「生命への観点の転回」を行うことが必要なのである。

 

 

第8章 フランクルの宗教観———フランクルとエックハルト  松田美佳

 

2 苦悩と宗教  p207

 

さて、運命に対する正しい態度とはどのような態度だろうか。

フランクルは次のように言っている。

「人間を苦しめる運命は先ず———もし可能ならば———新たに形成され、そして次に———もし必要ならば

———耐えられることによって意味を持つものである。」

 

この箇所で言われていることからすると、

運命に対する正しい態度とは、

運命から想像価値や体験価値を実現する可能性を読み取り、

運命を素材として何かを生み出そうとする態度である。

それは、広義の運命に対する正しい態度である。

しかしながら、そのような可能性そのものが見出せないような状況においては、

その運命を背負うという態度が正しい態度となる。

つまり、狭義の運命に対する正しい態度とは、

その運命を「背負う」という態度である。

それは、謙虚に、またしっかりと運命を「そのまま受け入れる」「受容する」態度である。

それは、運命を、「身につける」ことであり、「担ぐ」ことであり、

運命を「自分の中に取り込む」ことである。

そのような態度によって運命に耐えるということこそ、

運命を正しい仕方で被るということであり、

運命について正しく苦しむということである。

そのような苦悩について次のように述べている。

 

「苦悩している人は、もはや運命を外面的に形作ることはできないが、

まさに苦悩することによって、

運命を内面的に克服することができるようになる。

それは、運命を事実の次元から実存の次元へと移すことにょってである。」

 

 

第9章 フランクルの労働観———働くことの意味  梶川哲司

 

4 自己実現から自己超越へ

 

働くことと自己超越  p246

 

このように、自己実現は人間のもつ志向性の結果であると捉え、

真の自己は自己超越によって実現されるというのがフランクルの立場である。

しかし、自己超越には、自己を引き渡す対象と状況が必要である。

この対象と状況を提供するものとして仕事があり、

その仕事を保証するものとして職業がある。

「自己実現という営みはみな仕事への関与を通じてみられる」とはそのような意味と解される。

 

ここで働くことの意味が明らかになってこよう。

すなわち、働くとは仕事をすることであり、

仕事をするということは、

「そのつどのなすべき事に集中すること」、

すなわち「我を忘れて事そのものに使えること」である。

そして結果的に自己が実現される。

働くとはそのような自己超越の場に身を置くことであり、

職業は、したがって自己超越の場を用意するものといえるのである。

 

このことに関連して神谷美恵子は次のような事例を報告している。

長島愛生園のある青年は久しく心臓神経症に悩んでいたが、

あるとき思い切って園内の機構観測所に努めてみた。

この観測所は外部社会にも認められたもので、

青年はここの仕事に参加するようになって見違えるほど元気になり、

神経症の症状も消えた。

しかし年金制度が実施され、

ある程度の肢体不自由のあるこの青年にも適用されたため、

観測所の仕事を辞めなければならなくなった。

するとまた神経症が振り返したという子である。

神経症は自己への過度なこだわりに起因する。

しかし観測という仕事に従事することにより、

青年はこのこだわりから解放されたのである。

フランクルは、「われわれが自分の不安から自由になれるのは、

自己観察やまして自己反省によってではなく、

また自分の不安を思いめぐらすことによってでもなく、

自己放棄によって、自分を引き渡すことによって、

そしてそれだけの価値ある事物への自己をゆだねることによってである」と述べているが、

仕事のもつ自己超越性が現れた事例である。

 

このように仕事とは、真の自己実現をはかるために、

自己以外の他の者または物に、

我を忘れて専念する「迂路」ともいうべき装置だと考えることができよう。

 

この意味において、夏目漱石もまた働くということを次のように考察している。

「職業というものは要するに人のためにすることだという事に、

どうしても根本義をおかなければなりません。

人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。

……要するに職業と名のつく以上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって

自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である。」

この「人のためにする結果が己のためになる」ということが、

仕事のもつ自己超越的側面による自己実現をあらわしている。

それゆえ仕事は「他人本位」にするものだというのである。